玉名市議会 2017-09-06 平成29年第 5回定例会−09月06日-03号
この慰霊祭ですけれども、慰霊祭は太平洋戦争以前の日清・日露戦争、満州事変でお亡くなりになった方も含まれておられるのか。また、現在、市民会館の西側に当時の市長さん名で平和の碑が建立されておりますけども、慰霊祭に対する市自体のかかわりは具体的にどうなっているのか伺います。 ○副議長(江田計司君) 健康福祉部長 村上隆之君。
この慰霊祭ですけれども、慰霊祭は太平洋戦争以前の日清・日露戦争、満州事変でお亡くなりになった方も含まれておられるのか。また、現在、市民会館の西側に当時の市長さん名で平和の碑が建立されておりますけども、慰霊祭に対する市自体のかかわりは具体的にどうなっているのか伺います。 ○副議長(江田計司君) 健康福祉部長 村上隆之君。
その頃の世界,その中の日本,そしてその頃の戦争を語るには,とても複雑で多面的過ぎるため,詳しく細部までお聞きすることは難しいですが,ここではこの戦争の突入から終戦後までの経緯,満州事変から日中戦争,そして日米間の戦争,そして終戦を迎え東京裁判で日本が裁かれるまで,これについて日本の行動をどう認識されているか。
大東亜戦争、この15年に渡る戦争の始まりが、昭和6年9月の満州事変とするならば、その立役者は日露戦争時の児玉源太郎の再来、作戦の天才家、関東軍高級参謀石原莞爾中佐であります。当時、満州は各民族が入り乱れ治安・秩序が悪く、軍閥が闊歩する無法地帯でありました。
大体第2次世界大戦の突破口というのは、満州事変が1931年、1937年に中国に対する全面戦争、1941年に太平洋戦争、これが「大東亜戦争」というふうに今度の教科書では書いてありますね。これはいずれもどういう目的で出されたかといったら、日本の生命線という形で出されているんですね、生命線。
大沼保昭東大教授が、さきの戦争を十五年戦争と考え、日本が満州事変からほぼ恒常的に中国に軍事介入し、その最終結果として大東亜戦争を決断せざるを得なかったという対中国戦争における連続性の側面が明らかになり、そして満州事変を起点とする対中国戦争に関する限り、日本の遂行した戦争の侵略的性格は明らかで、戦争責任の問題に対しては十五年戦争史観の持つ重要な意味があると指摘しておりました。
大沼保昭東大教授が、さきの戦争を十五年戦争と考え、日本が満州事変からほぼ恒常的に中国に軍事介入し、その最終結果として大東亜戦争を決断せざるを得なかったという対中国戦争における連続性の側面が明らかになり、そして満州事変を起点とする対中国戦争に関する限り、日本の遂行した戦争の侵略的性格は明らかで、戦争責任の問題に対しては十五年戦争史観の持つ重要な意味があると指摘しておりました。